思うんですけどさ、CMで既存有名曲の替え歌を使う手法は昔からあるものの、ここ10年増える一方ですわな。
あれ、いい加減やめるワケにはいかんのですかね?
サイズを15分に収める為に4拍子の曲に部分的に2拍子や3拍子を混ぜたり、あるいは繰り返すべき部分をガサっと端折ったりするのがまたイラっとするのですよ。
あと、最近のドラマ。
つってもあんまり観ないんだけど、そのよりによって滅多に観ないドラマを観ると、最近のドラマのって、彩度がかなり高め、コントラストがかなり強め、大概のシーンは何かしら猛烈に色被りしてる(夕陽のシーンはまっ黄色、森の中では何もかも緑色……みたいな)……っていう絵作りなのは何ででしょうかね……?
流行りなんすかね?
最近の液晶でハイビジョンで大画面の最新テレビとかだとあれだけ濃い味の絵作りをしても綺麗に見えるんだと思うんだけど、14インチの昔ながらのブラウン管テレビで観ると、色は飽和してのっぺり、コントラストは白とび/黒潰れでまたもやのっぺり……っていう何とも悲惨な絵になるワケなのですよ。
さらに関係ないけど、円谷新体制後初のウルトラシリーズ作品であるところのウルトラマンメビウスの続編のDVDオリジナル作品を見たのですよ。
人間の出演ゼロの完全な仮面劇。
で、舞台は宇宙 or 光の国(ウルトラの星)。
背景は全部CG。
ワイヤーアクションの連発。
円谷が他所の会社に買われたときに、買収元のエラい人が言ってた「セット組んでピアノ線で釣った模型を飛ばす時代じゃない」というような発言が作品になると確かにこうなる。
ウルトラマンが飛ぶ描写が、飛び人形(ウルトラマンが飛んでるポーズの人形)からワイヤーで釣ったスーツに変わったのは、確かに進歩か(※人形は大抵出来が粗雑で興ざめだった)。
まぁ、ピーンと伸ばした手がプルプルしてたのはちょっとヘンだったけど。
で、特典のメイキング映像で、アメリカでずっとワイヤーアクションでSFXを撮ってたっていう外部から来た監督とプロデューサー(だっけかな)が、「過去の作品の悪口を言うつもりじゃないけど、ここ最近のウルトラマンは『ウルトラマンを作ろうとしてウルトラマンを作ってた』ように見えたけど、初期のウルトラマンは『どうやったら子供にウケるものが作れるか?』という意識で作っていたはずで、『ウルトラマンを作ろう』とは思ってなかったはずだ。だから自分達はその原点に立ち返る」と語ってた。
物を創る人間の言うこととして正しい。
でも、肝心の作品がちっとも面白くなかったんだよな……。
現在、劇場で公開している新作も、観に行くかっつったら観に行かないと思う。
『ウルトラマン』じゃないんだもん。
2009年12月21日
2009年11月23日
キャラクターの使い方
昔愛読していた本の一節。
自然界には空気の音圧の波はあるが音は無い。
音は空気の波が感覚器官を通じて伝えられた時に、脳内のグリッドが明滅しているパターンのようなもののワケだ。
光も同じ。
自然界のある特定の電磁波が感覚器官を通じて認知された際の脳内のグリッドの明滅だ。
重要なのはそのグリッドの明滅のパターンと外界にあるその対応物は同じものではないということである。
光も音も人間の中にあるものであって、外界には電磁波やら空気の波しかない。
それらを人間が認識できる形に変換されたものが光やら音なのだ。
同じように、人が外界にある物事や出来事を内部に取り込むに当たって利用しているのが言葉というグリッドのパターンだ。
これも先の例と同じで、言葉そのものは、外界にある言葉の対象物とはイコールではない。
その本では、ここから「私は」という言葉によって、「私」が皮膚の中に閉じ込められ、外界と永久に隔てられた存在である……という言葉の仕組みのバグのような誤解に人間が陥っていてるということを説いていた。
著者は60年代のアメリカの学者なんだけど、英語圏ならばあんまり主語を略したりはしないようなので、そういう論法も成り立つかもね。
日本語は主語を略しまくりだけど。
でも、だからこそ日本で言うところの自我のあり方って、西洋近代的な自我から遠いのかしらん?
それはともかく。
「私」という言葉と「私」を同一視してしまうことが、心の病の原因だっていうのがその本の主旨で、この微妙なズレをいかに本人に気づかせるか……ということを主眼にして東洋の実践的ないくつかの手法(老荘の思想やら禅やら)が発達してきたっていうことと、心理療法の相違点が論じられていた。
その本を読んで自分なりに理解したところでいうと、僕は「イケダ」というキャラクターのみを操作できる立場でゲームに参加しているのだ。
重要なのは……
・このゲームには「イケダ」というキャラクター以外にも色んなキャラクターが出てくるが、自分で操作できるのは「イケダ」のみである。
・「イケダ」は僕のキャラクターであるが「僕」ではない。
……ということだ。
無論、状況が理解できているだけで、その全てが体得できてたらそれは仏教でいうところの「悟り」って奴なんだろうが、まぁ、もちろん僕は凡夫なんでそんなことはない。
なんにせよ、僕は「イケダ」ってキャラクターをうまく使ってゲームを進めたい。
他に使うことのできるキャラクターは無いし。
「イケダ」を使うのが他のキャラクターだったら、もっとゲームを楽しめてるのに……というようなことにならないように、僕は僕なりに「イケダ」でゲームを楽しもうと思う。
というようなことを考えるときに、僕が「ミノワ」というキャラクターの使い手だったら、この状況なら海外への誘いがあれば乗ってしまうのに……と思うわけである。
「ミノワ」ってキャラを大活躍させる千載一遇のチャンスだ。
というワケで、まぁ、まずは気負わずに海外に行ってきなよ、ミノワさん。
自然界には空気の音圧の波はあるが音は無い。
音は空気の波が感覚器官を通じて伝えられた時に、脳内のグリッドが明滅しているパターンのようなもののワケだ。
光も同じ。
自然界のある特定の電磁波が感覚器官を通じて認知された際の脳内のグリッドの明滅だ。
重要なのはそのグリッドの明滅のパターンと外界にあるその対応物は同じものではないということである。
光も音も人間の中にあるものであって、外界には電磁波やら空気の波しかない。
それらを人間が認識できる形に変換されたものが光やら音なのだ。
同じように、人が外界にある物事や出来事を内部に取り込むに当たって利用しているのが言葉というグリッドのパターンだ。
これも先の例と同じで、言葉そのものは、外界にある言葉の対象物とはイコールではない。
その本では、ここから「私は」という言葉によって、「私」が皮膚の中に閉じ込められ、外界と永久に隔てられた存在である……という言葉の仕組みのバグのような誤解に人間が陥っていてるということを説いていた。
著者は60年代のアメリカの学者なんだけど、英語圏ならばあんまり主語を略したりはしないようなので、そういう論法も成り立つかもね。
日本語は主語を略しまくりだけど。
でも、だからこそ日本で言うところの自我のあり方って、西洋近代的な自我から遠いのかしらん?
それはともかく。
「私」という言葉と「私」を同一視してしまうことが、心の病の原因だっていうのがその本の主旨で、この微妙なズレをいかに本人に気づかせるか……ということを主眼にして東洋の実践的ないくつかの手法(老荘の思想やら禅やら)が発達してきたっていうことと、心理療法の相違点が論じられていた。
その本を読んで自分なりに理解したところでいうと、僕は「イケダ」というキャラクターのみを操作できる立場でゲームに参加しているのだ。
重要なのは……
・このゲームには「イケダ」というキャラクター以外にも色んなキャラクターが出てくるが、自分で操作できるのは「イケダ」のみである。
・「イケダ」は僕のキャラクターであるが「僕」ではない。
……ということだ。
無論、状況が理解できているだけで、その全てが体得できてたらそれは仏教でいうところの「悟り」って奴なんだろうが、まぁ、もちろん僕は凡夫なんでそんなことはない。
なんにせよ、僕は「イケダ」ってキャラクターをうまく使ってゲームを進めたい。
他に使うことのできるキャラクターは無いし。
「イケダ」を使うのが他のキャラクターだったら、もっとゲームを楽しめてるのに……というようなことにならないように、僕は僕なりに「イケダ」でゲームを楽しもうと思う。
というようなことを考えるときに、僕が「ミノワ」というキャラクターの使い手だったら、この状況なら海外への誘いがあれば乗ってしまうのに……と思うわけである。
「ミノワ」ってキャラを大活躍させる千載一遇のチャンスだ。
というワケで、まぁ、まずは気負わずに海外に行ってきなよ、ミノワさん。
2009年10月26日
カメラを買って一年くらい経った
多少青臭い話。
自分の信条としてるところでは、ミュージシャンってのは、ラジオのようなモンであるべきと思ってる。
アンテナを磨き、自分が受信したものをなるべく捻じ曲げず、そのまま形にできるように鍛錬する。
「なるべく捻じ曲げず」ってのは、自分の主観やらなんやらでその音楽が進もうとしている方向を邪魔しないってことだ。
実は「自己表現」の類にあまり価値を置いていないのである。
ほっといてもそのラジオの癖(=ミュージシャンの特性)ってのは作品に滲むから、それ位でよいのだ、と。
が。
実際のところの僕は、そうして自分で作品を作るよりも、人が作った曲なんかにアイデアを足したり、よりその作品が生きるように形を整えたり……という方が得意で、むしろ自分じゃ曲を殆ど書かない。
特にこの10年は、自分で作品を作るよりは、人の創作の手助け的な部分での方が力を発揮してたと思う。
やってることはアーティストではなく演出家なり技術者だ。
まぁ、よいのだけど、若干道を誤ったかなと思うこともある。
で、カメラ……っていうか写真。
基本はパチリと撮るだけ。
写真の中にはもちろん、撮影者なりの表現としての写真ってのもあるのだけど、少なくとも自分の撮るようなのはホントにただ撮るだけ。
ただ撮るだけなんだけど、自分というフィルターを通ってるので、出来上がった写真にはそこはかとなく自分の物の見方の癖がちょっとだけ入ってたりもする。
で、自分で見て「面白いなぁ」と思って撮ったものは、後で見ても写真として面白かったりするし、なんとなく撮ってみた……というような写真は、やっぱりツマラン写真になってたりする。
とは言え、撮影時に面白い写真にする為に何か作為的なものを加えるわけではない。
あくまでも撮るだけ(構図とか光の加減は考えるけど)。
敢えて言うならば、色んな風景や出来事を自分なりに面白がれるアンテナの感度のようなものが写真には必要なんだと思う。
……というような具合で写真を撮ってて、これは自分がこうなれればと思ってた音楽創作のスタイルと同じなんだと気づいた。
主観を交えず、作為で捻じ曲げずにただただパチリ。
これと同じことがなんで自分は音楽ではできんモンかなぁ、と思うカメラ道二年目の秋であった。
自分の信条としてるところでは、ミュージシャンってのは、ラジオのようなモンであるべきと思ってる。
アンテナを磨き、自分が受信したものをなるべく捻じ曲げず、そのまま形にできるように鍛錬する。
「なるべく捻じ曲げず」ってのは、自分の主観やらなんやらでその音楽が進もうとしている方向を邪魔しないってことだ。
実は「自己表現」の類にあまり価値を置いていないのである。
ほっといてもそのラジオの癖(=ミュージシャンの特性)ってのは作品に滲むから、それ位でよいのだ、と。
が。
実際のところの僕は、そうして自分で作品を作るよりも、人が作った曲なんかにアイデアを足したり、よりその作品が生きるように形を整えたり……という方が得意で、むしろ自分じゃ曲を殆ど書かない。
特にこの10年は、自分で作品を作るよりは、人の創作の手助け的な部分での方が力を発揮してたと思う。
やってることはアーティストではなく演出家なり技術者だ。
まぁ、よいのだけど、若干道を誤ったかなと思うこともある。
で、カメラ……っていうか写真。
基本はパチリと撮るだけ。
写真の中にはもちろん、撮影者なりの表現としての写真ってのもあるのだけど、少なくとも自分の撮るようなのはホントにただ撮るだけ。
ただ撮るだけなんだけど、自分というフィルターを通ってるので、出来上がった写真にはそこはかとなく自分の物の見方の癖がちょっとだけ入ってたりもする。
で、自分で見て「面白いなぁ」と思って撮ったものは、後で見ても写真として面白かったりするし、なんとなく撮ってみた……というような写真は、やっぱりツマラン写真になってたりする。
とは言え、撮影時に面白い写真にする為に何か作為的なものを加えるわけではない。
あくまでも撮るだけ(構図とか光の加減は考えるけど)。
敢えて言うならば、色んな風景や出来事を自分なりに面白がれるアンテナの感度のようなものが写真には必要なんだと思う。
……というような具合で写真を撮ってて、これは自分がこうなれればと思ってた音楽創作のスタイルと同じなんだと気づいた。
主観を交えず、作為で捻じ曲げずにただただパチリ。
これと同じことがなんで自分は音楽ではできんモンかなぁ、と思うカメラ道二年目の秋であった。
2009年10月12日
というわけで演ってきた。
……というわけで、ライヴをやってきた。
20年振りくらいに会うはとこが見にきてくれたんだけど、事前にgargleのCDを聴いて何故だか「癒し系」と思ったらしい。
本番後、「ちっとも癒し系じゃなくてすみません」と詫びた。
僕がこのイベントで毎回楽しみにしてるのは、砂山さんの作るクレイアニメーションの上映。
なんだかね、とてもよいのですよ。
宮沢賢治的な諦念というか、詩のようであり文学のようでありっていうか。
今回も魚が全て透明になったっていう辺りで涙が出そうになった。
まぁ、「そういう面ばかり見るからだ」と砂山さんは言うが。
撮影は、natural giftの時に使って自分で「お、ええな」と思ったLensbabyのシングルグラスを使用してみた。
ダブルグラスのレンズに比べると過剰にフォギーになるのだ。
舞台照明がカラフルなところだと、なかなか幻想的な絵になる。
が、今回は電球色のシックな照明だけだったんでどうかな?とも思ったんだけど、やっぱなんとなく幻想的。
20年振りくらいに会うはとこが見にきてくれたんだけど、事前にgargleのCDを聴いて何故だか「癒し系」と思ったらしい。
本番後、「ちっとも癒し系じゃなくてすみません」と詫びた。
僕がこのイベントで毎回楽しみにしてるのは、砂山さんの作るクレイアニメーションの上映。
なんだかね、とてもよいのですよ。
宮沢賢治的な諦念というか、詩のようであり文学のようでありっていうか。
今回も魚が全て透明になったっていう辺りで涙が出そうになった。
まぁ、「そういう面ばかり見るからだ」と砂山さんは言うが。
撮影は、natural giftの時に使って自分で「お、ええな」と思ったLensbabyのシングルグラスを使用してみた。
ダブルグラスのレンズに比べると過剰にフォギーになるのだ。
舞台照明がカラフルなところだと、なかなか幻想的な絵になる。
が、今回は電球色のシックな照明だけだったんでどうかな?とも思ったんだけど、やっぱなんとなく幻想的。
2009年10月10日
はい、いつもの宣伝だよー。
←……というわけで、明日はライヴっす。
毎度お馴染みのStar tripperっす。
今回もgargleでの出演+会場のBGM担当っす。
今回のBGMはDSを2台(DS-10とDS-10+)を使って生アンビエントって感じで行く予定っす。
2台を敢えて同期させず、ちょっとだけテンポをずらしてじわじわと音が近づいて離れてってな感じでやろうかな、と。
あと、各バンドの曲が入ったコンピを作ったんだけど、なんちゃってマスタリングもやったっす。
まぁ、ちゃんとどっかで教わったわけじゃないんであくまでも「なんちゃって」だけど。
……という記事を書きながら、YouTubeでずっとオフコースを流してたらヨメに「気分が暗くなる」と不評だったので、一曲だけ電気グルーブの「Cafe de 鬼(顔と科学)」を流して、またオフコースに戻ったであります。
というワケでよろしければよろしくっす。
毎度お馴染みのStar tripperっす。
今回もgargleでの出演+会場のBGM担当っす。
今回のBGMはDSを2台(DS-10とDS-10+)を使って生アンビエントって感じで行く予定っす。
2台を敢えて同期させず、ちょっとだけテンポをずらしてじわじわと音が近づいて離れてってな感じでやろうかな、と。
あと、各バンドの曲が入ったコンピを作ったんだけど、なんちゃってマスタリングもやったっす。
まぁ、ちゃんとどっかで教わったわけじゃないんであくまでも「なんちゃって」だけど。
……という記事を書きながら、YouTubeでずっとオフコースを流してたらヨメに「気分が暗くなる」と不評だったので、一曲だけ電気グルーブの「Cafe de 鬼(顔と科学)」を流して、またオフコースに戻ったであります。
というワケでよろしければよろしくっす。
2009年09月22日
gargle二人旅
例の野外イベント「Fire Jam」に参加するために、西伊豆まで行ってきた。
普段の旅行の時は、大抵ヨメと半々で運転を交代するのだが、今回は423kmの全工程を一人で運転。
ちと疲れたね、流石に。
行きは渋滞のせいで6時間半くらいかかったし。
まぁ、つまりはずっと運転してたのであんまり写真の枚数はないのだけど。
色々な予感は色々的中。
出演者が出演者を観る……という閉塞した状況が山奥で繰り広げられていた。
せっかくの活動を音楽をやってる以外の人(普通のフェス好きの人とか)に観てもらわなきゃ意味ないんじゃない?と思ったが、主催者の子達は楽しそうだったので、何も申しますまい。
本番一週間前に取った民宿がほどよくポンコツで良かった。
部屋には赤いプラスチックの外装のチャンネルをガチャガチャと回すテレビが置いてあった。

大抵の宿では旅の疲れもあってぐっすり寝られる方なのだが、枕が高すぎて1時間以上寝付けないという初の体験をした。
普段の旅行の時は、大抵ヨメと半々で運転を交代するのだが、今回は423kmの全工程を一人で運転。
ちと疲れたね、流石に。
行きは渋滞のせいで6時間半くらいかかったし。
まぁ、つまりはずっと運転してたのであんまり写真の枚数はないのだけど。
色々な予感は色々的中。
出演者が出演者を観る……という閉塞した状況が山奥で繰り広げられていた。
せっかくの活動を音楽をやってる以外の人(普通のフェス好きの人とか)に観てもらわなきゃ意味ないんじゃない?と思ったが、主催者の子達は楽しそうだったので、何も申しますまい。
本番一週間前に取った民宿がほどよくポンコツで良かった。
部屋には赤いプラスチックの外装のチャンネルをガチャガチャと回すテレビが置いてあった。

大抵の宿では旅の疲れもあってぐっすり寝られる方なのだが、枕が高すぎて1時間以上寝付けないという初の体験をした。
2009年09月20日
明日は伊豆
ご無沙汰っす。
更新してない間にも犬が骨折し、入院し、退院し(諸々で31万円也……!)、伊豆に旅行に行き、ライヴをやり、
数年ぶりに大学時代の先輩宅に遊びに行き痩せた先輩を見てダイエットを決意し、実行し(まだ実行数日)、今に至るという感じなのだが、まぁ、ブログというのは習慣のようなもんなので、一回途絶えると難しいねぇ。
数年前のブログ量産期は、一日を過ごしながら、「このことをブログに書くならば」という感じで常に常に出来事を文章に変換するというプロセスが頭の中に常駐してる感じだったのだけど。
さて。
告知といえば告知。
明日、伊豆でやるインディーズのフェスに出てくる。
バンド界隈の人間は、バンド界隈のどうしょうもない閉塞感に皆危機感のを持っており、このフェスを企画した若い子たちも、その問題への彼らなりの回答という意味でフェスを企画したようなんだけど、個人的な事前の印象では、閉塞感たっぷりのバンド界隈を山の中にそのまま持ってっただけのような感じがしてる。
が、何事もしないでブツクサ言ってるだけよりは、彼らの方が100倍マシではある。
がんばれ!若者!
というワケで、明日は相方のミノワ氏とレンタカー二人旅。
更新してない間にも犬が骨折し、入院し、退院し(諸々で31万円也……!)、伊豆に旅行に行き、ライヴをやり、
数年ぶりに大学時代の先輩宅に遊びに行き痩せた先輩を見てダイエットを決意し、実行し(まだ実行数日)、今に至るという感じなのだが、まぁ、ブログというのは習慣のようなもんなので、一回途絶えると難しいねぇ。
数年前のブログ量産期は、一日を過ごしながら、「このことをブログに書くならば」という感じで常に常に出来事を文章に変換するというプロセスが頭の中に常駐してる感じだったのだけど。
さて。
告知といえば告知。
明日、伊豆でやるインディーズのフェスに出てくる。
バンド界隈の人間は、バンド界隈のどうしょうもない閉塞感に皆危機感のを持っており、このフェスを企画した若い子たちも、その問題への彼らなりの回答という意味でフェスを企画したようなんだけど、個人的な事前の印象では、閉塞感たっぷりのバンド界隈を山の中にそのまま持ってっただけのような感じがしてる。
が、何事もしないでブツクサ言ってるだけよりは、彼らの方が100倍マシではある。
がんばれ!若者!
というワケで、明日は相方のミノワ氏とレンタカー二人旅。
2009年08月03日
貧乏人の金の使い方
あんまりカネは無い方だ。
なので、カネを使うならばついつい費用対効果の高い使い方に偏る。
楽器関連の機材で言えば、楽器を買ったりエフェクターを買ったりっていうのは使った分だけの満足感を得やすい。
アコーディオンを買った……おー面白れー!とか、ディレイを買った……うひょー飛ぶ〜〜!とか。
同じ金額を使って「シールドを全部高級品に変えました」とかだと、確実に効果はあるもののその効果は地味だ。
「より良く」はなるが、世界が変わる程の劇的なものはない。
なので、ついついそういう地味な部分への投資は先送りされがちになる。
エフェクターボードの取っ手が壊れて早1年以上。
しょうがないから下から抱えるようにして持ち運んでいる(大概はキャリーに積んでるが)。
ボリュームペダルも、踏む時の二回に一回はド派手な「バチン!」というノイズが出る。
接触が悪いのだ。
そして、電源周りは最悪で、だましだましACアダプタを足してはきたのだが、いかんせんエフェクターの数に対してはまだ不足しているらしく、何も弾かなくても、繋いで音量を上げるだけで「ブーー」とハム音が乗る。
それも時たまかなりデカい音がする。
P.A.さんに「なんかノイズが乗ってるんですが」とか言われて、その時初めて気づいたような顔をして「あれおかしいなぁ」とか言いながらエフェクターをいじくると、例のボリュームペダルが「バチン」と殊のほかデカい音を立てる。
気まずいことこの上ない。
僕がこの数年間でした機材に対する投資の中で最も効果は地味なものなのだが、この度、エフェクターボードとボリュームペダルを買い替え、全エフェクターが個別に電源を取れるようにACアダプタをまとめ買いし、それらが全部繋げるように電源タップを買った。
当初の予定では、これらが全てエフェクターボードに収まる予定だったが、ACアダプタを繋げた状態では電源タップが収まらないので、しょうがないから電源タップをエフェクターボードに入れるのは諦めた。
そしてその効果は?
あれ程煩かったノイズが殆ど無くなった。
あまりにノイズが無いので、ついついスタジオのパワードミキサーのレベルを上げすぎて「今日はなんだかホワイトノイズがデカいなぁ」と勘違いした程だ。
まぁ、そんなことをなんでわざわざブログに書くのかと言えば、やっぱりかかった費用(2万強なり)に対しての満足感が、例えば同じ金額で新しいエフェクターなんぞを買ったことに比べて低いからだ。
ここでこうして書き綴ってみることで、改めて「自分のしたことは間違ってなかったんだ」という思いを噛み締め、満足感を得ようと言う次第である。
なので、カネを使うならばついつい費用対効果の高い使い方に偏る。
楽器関連の機材で言えば、楽器を買ったりエフェクターを買ったりっていうのは使った分だけの満足感を得やすい。
アコーディオンを買った……おー面白れー!とか、ディレイを買った……うひょー飛ぶ〜〜!とか。
同じ金額を使って「シールドを全部高級品に変えました」とかだと、確実に効果はあるもののその効果は地味だ。
「より良く」はなるが、世界が変わる程の劇的なものはない。
なので、ついついそういう地味な部分への投資は先送りされがちになる。
エフェクターボードの取っ手が壊れて早1年以上。
しょうがないから下から抱えるようにして持ち運んでいる(大概はキャリーに積んでるが)。
ボリュームペダルも、踏む時の二回に一回はド派手な「バチン!」というノイズが出る。
接触が悪いのだ。
そして、電源周りは最悪で、だましだましACアダプタを足してはきたのだが、いかんせんエフェクターの数に対してはまだ不足しているらしく、何も弾かなくても、繋いで音量を上げるだけで「ブーー」とハム音が乗る。
それも時たまかなりデカい音がする。
P.A.さんに「なんかノイズが乗ってるんですが」とか言われて、その時初めて気づいたような顔をして「あれおかしいなぁ」とか言いながらエフェクターをいじくると、例のボリュームペダルが「バチン」と殊のほかデカい音を立てる。
気まずいことこの上ない。
僕がこの数年間でした機材に対する投資の中で最も効果は地味なものなのだが、この度、エフェクターボードとボリュームペダルを買い替え、全エフェクターが個別に電源を取れるようにACアダプタをまとめ買いし、それらが全部繋げるように電源タップを買った。
当初の予定では、これらが全てエフェクターボードに収まる予定だったが、ACアダプタを繋げた状態では電源タップが収まらないので、しょうがないから電源タップをエフェクターボードに入れるのは諦めた。
そしてその効果は?
あれ程煩かったノイズが殆ど無くなった。
あまりにノイズが無いので、ついついスタジオのパワードミキサーのレベルを上げすぎて「今日はなんだかホワイトノイズがデカいなぁ」と勘違いした程だ。
まぁ、そんなことをなんでわざわざブログに書くのかと言えば、やっぱりかかった費用(2万強なり)に対しての満足感が、例えば同じ金額で新しいエフェクターなんぞを買ったことに比べて低いからだ。
ここでこうして書き綴ってみることで、改めて「自分のしたことは間違ってなかったんだ」という思いを噛み締め、満足感を得ようと言う次第である。
2009年07月12日
御礼申し上げる
自信を持って断言できる。
gargleが去年出したCD「looming EP」は、ちっとも売れてない。
僕と、相方のミノワさんの家それぞれに、無残な段ボールの山を築いている。
内容の素晴らしさも自信を持って保証できるのだが、まぁ、こればっかはしょーがない。
が、ちょっと前にロシアのネットレーベルからお声がかかり、音源の無料のダウンロードってのをやってるんだけど、ダウンロード総数が2万1千とかになってる。
よく考えたらこりゃ素晴らしい。
所詮アマチュアの自主制作の音源である。
インディーズ界隈の有名な海外レーベルからCDをリリースするというチャンスが得られたとしても、なかなか万単位で売れるということは無いのが普通なのだ。
僕らは無料で音源を配布するということを選んだお陰で、CDだったらとてもさばけない程の数の人たちに音源を聴いてもらうことができた。
これは素直にうれしい。
で、つくづく思ったのは、坂本龍一の言ってるところの「音楽作品を作って収入を得るというビジネスモデルの終焉」ってのはホントだなぁ、ってことだ。
インディーズで1,000円のCDが2万1千枚売れてたら、そりゃもうそれなりの額が僕らの元に入ってたのだが、実際の僕らは一銭も金銭を得ていない。
その代わり、インターネットという絶大な威力の手段を使って、多くの国の多くの人たちに自分達の音楽を聴いてもらうことができた。
音楽がカネと固く結びついていたら、こういうことにはならんかったのだ。
まぁ、長い人類の歴史の中で、「音楽家」という職業が成り立ったのはほんの一時代なワケで、元に戻ったんでしょな。
どっちかと言うと、音楽で儲かる世の中よりも、決して儲からないけど、世界中の人に自分達の音楽を聴いてもらえる手段を、全てのミュージシャンが手にしているという今の世の中の方が楽しいと思う。
gargleが去年出したCD「looming EP」は、ちっとも売れてない。
僕と、相方のミノワさんの家それぞれに、無残な段ボールの山を築いている。
内容の素晴らしさも自信を持って保証できるのだが、まぁ、こればっかはしょーがない。
が、ちょっと前にロシアのネットレーベルからお声がかかり、音源の無料のダウンロードってのをやってるんだけど、ダウンロード総数が2万1千とかになってる。
よく考えたらこりゃ素晴らしい。
所詮アマチュアの自主制作の音源である。
インディーズ界隈の有名な海外レーベルからCDをリリースするというチャンスが得られたとしても、なかなか万単位で売れるということは無いのが普通なのだ。
僕らは無料で音源を配布するということを選んだお陰で、CDだったらとてもさばけない程の数の人たちに音源を聴いてもらうことができた。
これは素直にうれしい。
で、つくづく思ったのは、坂本龍一の言ってるところの「音楽作品を作って収入を得るというビジネスモデルの終焉」ってのはホントだなぁ、ってことだ。
インディーズで1,000円のCDが2万1千枚売れてたら、そりゃもうそれなりの額が僕らの元に入ってたのだが、実際の僕らは一銭も金銭を得ていない。
その代わり、インターネットという絶大な威力の手段を使って、多くの国の多くの人たちに自分達の音楽を聴いてもらうことができた。
音楽がカネと固く結びついていたら、こういうことにはならんかったのだ。
まぁ、長い人類の歴史の中で、「音楽家」という職業が成り立ったのはほんの一時代なワケで、元に戻ったんでしょな。
どっちかと言うと、音楽で儲かる世の中よりも、決して儲からないけど、世界中の人に自分達の音楽を聴いてもらえる手段を、全てのミュージシャンが手にしているという今の世の中の方が楽しいと思う。
2009年07月09日
水曜は定時退社奨励日
新しい職場は、水曜日が定時退社奨励日なのだ。
職場から20分ちょいでお台場なので、先々週に引き続き、例のガンダムを見てきた。
先々週(大雨)と合わせてこんな感じ。
今日の撮影分は、家に帰ってよく見てみると、画面左(縦位置だと上)にレンズかセンサーの汚れがあった……。
ショック。。。
職場から20分ちょいでお台場なので、先々週に引き続き、例のガンダムを見てきた。
先々週(大雨)と合わせてこんな感じ。
今日の撮影分は、家に帰ってよく見てみると、画面左(縦位置だと上)にレンズかセンサーの汚れがあった……。
ショック。。。

